ジョイフルテニス新聞                                       更新日: 2007年9月25日

 ◎ 昔、毎月、テニス部で新聞を発行していました。第1号は(伊賀上)さんが1975年(S60年)が発刊し、

    試合結果や連絡事項も掲載していました。その一部の記事を下記に紹介します。

 ◎ 過去に(大田)が発行した新聞をお持ちの方は、情報提供をお願いします。

 ◎ 他にも掲載して欲しい記事がありましたら、情報提供をお願いします。

  

年月日 記 事 備 考
1975年5月25日 わが硬式テニス部ができて10年

                   硬式テニス部長  森谷 護 

 ポーン、ポーンと白球を打ち合う・・・・はたから見ると「何が面白くて・・・よくもまあ・・・」とキチガイみたいに思われていようと、いまいと・・・暑い時も、寒い時も打ち続ける。そして、秋が過ぎ、冬が来て、正月の元旦の日まで性こりもなく白球を追い、そして、又、春を迎える。 ふと気がついてみたら10年が経っていた。・・・というのが、わが硬式テニス部創設10周年の感想である。

 現在、硬式テニス部に所属するもの18人それに昨年から同好会が発足していて、休日毎に熱心にプレーしている。 今年の春には、呉研究所の若い人達、男女10数人が楽しそうにテニスをエンジョイしている姿がテニスコートに見られるようになった。にぎやかになったものである。

 10年前の春のある日、同好の者が数人集まって、どこかでテニスをやろうじゃないか、ということになった。 もちろんコートもない時代である。市営コートや呉造船、病院や学校のコートを借り歩いてはテニスをした。

 やがて現在のテニスコート(バレーコートもある)の所にあった。戦後すぐに作られた古いプールが壊されて、土が運び込まれて平地になった。 それを見て、「これだ!」と思った。早速、総務部にお願いしたら「自分達で作るなら利用してよろしい」とのこと。「自分達のコートが持てる」という喜びにあふれて、ローラーを引き、ブラシをかけた。ポールももちろんレッキとした(呉)内作品。そのポールをたて、ネットを張り、白いラインを引き終わったとき・・・嬉しかった。本当に嬉しかった。

昭和40年の夏の頃ではなかったろうか。そのとき、硬式テニス部が創設されたのである。

 国鉄呉線は、つい何年か前までSLが走っていた。駅の直ぐ裏にコートがあるので、地面は薄黒くなり、ボールも直ぐうす汚れ、煤煙が目に飛び込んでドクターストップ・・・ということもしばしあった。

 わが硬式テニス部には伝統的に呉商高出身の女子部員がいる。わが部の花である。呉市の中では唯一の存在であり、これがわが社の硬式テニス部の特徴であり、誇りでもある。伝統を守りたいものである。

 歴戦の中でも、特に思い出されるのは呉市法人大会(6~7月に開催、会社対抗2ダブルス3シングルス)に3年連続優勝したことである。・・・あのときは、苦しかったなあ!

 今年は安芸津工場予定地内に野球グランド、バレーコートと共にテニスコート2面ができる。部創設10周年の春に新しいコートができるのも何かの因縁でもあろう。

 またまた大いにテニスをやろうではないか、諸君!      (オワリ)